先行きの不安を煽るように、遠くの山から吹く寒風が酔狂な音を立てている。革のジャケットのおかげで何とか耐えているものの、その風の勢い、視界を埋める雪の粒の横暴な大きさといったら、確かに今は五月だったが、吹雪とも言ってもいいだろう。
パブロはすぐに止むと言っていた。だがすぐにと言ったって、一、二時間の話ではない。奴の言うすぐに、というのは少なくとも今日明日中に、ということだ。つまり、歩哨の詰め所近くで見張りをしているアンセルモのじいさんを見つけて、連れて帰るまでにはやまないだろうし、とすると、じいさんはもう半日もこの吹雪に晒されていることになる。まさか雪になるとは思わなかったのだ。
じいさんのことだ。吹雪になったからと言って途中で帰って来はしない。定められた時間通り、例え足が凍って喉も凍ったとしても、迎えが来るまではそこを動かないだろう。早く迎えに行ってやらなければならない。そしてウイスキーを飲ませてやるのだ。

ロバートは先導して歩くフェルナンドから後れを取ることがないように、瞬きの回数をできるだけ少なくして、彼の薄手のジャケットの上をバタバタと靡くストールを見つめていた。

この男と二人になったのは初めてだった。彼はじいさんの前に見張りをしていたので、じいさんのいる見張り場が正確にわかっていた。昼過ぎに、いよいよ猛烈な雪が吹き荒れ、さすがにじいさんを凍死させるわけにはいかないと満場意見が一致した時、彼は一人で迎えに行くと言ったのだが、ロバートが一緒に行くと言った。フェルナンドは特別反対もせず、ロバートの同行を受け入れた。まだ出会ってから二日も経っていないが、アグスティン、プリミティボ、エラディオやらとの会話、また話していなくともその輪の中での彼の表情や視線を見てきた限りで言えば、彼はあらゆることに対して無関心であるように見えた。アグスティンが特に気性の荒い性質のせいで、相対的にそのように見えるというのもあるが、少なくとも連中の中では、一番に平面的であり、公平であり、無頓着であるように見えた。

彼に同行したのは、彼が今後の作戦についてきてくれるかを見極めるためであった。アグスティンはついてくるだろう。プリミティボもついてくる。エラディオは……ついてこざるを得ないだろう。あの男には、きっと逃げ出すことの方が難しい。
ではフェルナンドは?


「ドン・ロベルト」


風にまぎれてフェルナンドがそう問いかけたのだが、彼は前を向いたまま歩き続けているから、果たしてそれは幻聴ではないかと思われた。


「アメリカでもこんなに雪が降るのかなあ?」


彼の方から話しかけてきたことに少し安心した。なるほど、何に対しても無関心というわけではないらしい。単にそう見えただけの話かもしれない。


「降る時はね。でもまさか五月には降らないよ」

「え?」

「五月には降らない」


ロバートは声を張り上げた。それでも聞こえたかどうか疑わしかった。前方から吹きすさぶ風は、フェルナンドの声をロバートに運ぶが、ロバートの声は更に後方にかき消してしまう。
フェルナンドは歩みを遅くした。それで二人はほとんど並んで歩くような形になった。


「俺、アメリカに行ってみたいなあ」

「なぜ?」

「うん、まあアメリカじゃなくてもいいや。ただちょっと、ここにうんざりしちまってるからさ。あんたはよくこんな所に来たね」


ロバートは答えなかった。彼自身、荒々しいジプシーたちや、薄暗がりの湿っぽい洞窟、口の達者な気性の激しい女隊長にうんざりさせられるところがあった。だがそれを認めたところで彼の仕事に悪影響を与えるだけで、何の得もない。まして、彼らが今度の計画において本当に頼りにできるのか、信用できるのか、あのジプシーを見てみろ、土壇場になってあいつが尻尾を巻いて逃げだす可能性だって十分にあるではないか――そんな疑念をもったところで、彼がここへ来たことは今さら変えられることではなく、計画は決定され、着実に進んでいるのだ。たとえ、その類稀なる崇高な志から単身スペインへ赴いた彼の決断が愚かで蒙昧なものであったとしても――万が一にそう仮定したとしても――、それは変えられない。だから、そんな風に考えたり、悩んだりすることは今の彼には全く不必要なことで、無駄であった。愚痴は絶対に言ってはならなかった。それは彼の信念でもあった。


「別に、馬鹿にしてるわけじゃないよ、もちろん。褒めてるわけでもないけどさ。ただ、驚いただけだよ。気を悪くしないでな」


口元に柔らかな微笑を浮かべながらフェルナンドが言う。その微笑はロバートを宥めるための微笑にも見えたが、単に常からそんな表情であっただけのような気もした。ロバートにはわからなかった。


「気を悪くなんかしないよ。俺はこの国が好きだからね。確かに今はこんなときだから、皆つらいだろう。仕方がないさ。だが、だからこそ君達は今戦っているんだろう」

「ん、それはそうだ」


フェルナンドは相変わらずの微笑を口元に乗せたまま言った。やはり、彼は常にこんな微笑を浮かべていたような気がする。そうだ、彼はいつもこんな楽しい夢の名残をのこした寝起きのような顔をしていたではないか。悠然とした時の流れに、あるがまま身を任せているみたいに、変わらぬ微笑を湛えていたではないか。
だがその瞳はどうだ。その眼はただひたすら真っ直ぐに現実を見つめていて、今目の前で起きていることはすべて過去になることを知っている瞳だ。それはどこか諦めの混じった瞳だった。


「君は他の奴らほど、血の気が多くないみたいだ」


気を取り直してロバートが言った。ロバートの脳裏には、パブロやアグスティン、ピラールといった面々が比較対象として思い浮かべられていた。
フェルナンドはちらりとロバートの方を見やった。叩きつける寒さに細められた目の下の、微笑の影は少し薄くなった。健康的な頬は少し赤い。


「そうかな」

「ああ。そう見える」


フェルナンドの視線の先は再び前方に向けられ、ずっと遠くを見つめていた。考え込んでいるのか、彼が黙ってしまったために風の音がより大きくなったような気がした。風は強いが、雪は弱まってきたようだ。


「どういう意味かな」


フェルナンドがようやくそう言った。


「どういう意味って、そのままだよ。」

「それであんたどう思うんだい?」

「それでって」

「俺のそんな態度についてだよ」

「別に、どうも。思っただけだよ」

「そうか。俺ね、どうもそんな風に見られてるんじゃないかって気はしてたんだ。うん、事実、そうなのかもしれないけど。でもだからといって、俺だってファシストの奴らをぶっ殺してやりたいとは思ってんだぜ。ただ、俺はどうも、人より頭が悪いのかなぁ。考えるのに時間がかかるんだ。それで、ピラールにはよく、のろまだとか、愚図だとか言われるんだ」


フェルナンドははにかむような微笑を浮かべた。恥じている様子や、憤慨している様子は少しも見られなかった。まるで他人事だと思っているのか、もしくはピラールのそういった悪罵に関して、少しも貶められていると思っていない、目の色が黒か茶か、人差し指が薬指より長いか否か、そんな誰にでも無条件についてくる特性の一部だとでも考えているようだった。


「君は、パブロを殺すことについて『ピラールに賛成だ』と言ったね。やっぱり、彼女を信頼してるの?」

「ん、いや」

「違うのか」


ううん、と唸って、フェルナンドは心持ち口元を尖らせた。そして一度だけロバートの方をちらりと見た。そしてすぐに視線を前方に向けた。


「本当は、俺はパブロを殺すことには反対だったんだ。確かに、最近のパブロは見てられないほど臆病になっちまったし、馬に対する気にかけようといったら気違いじみてるよ。でも、その前までは、勇敢で機転のきく男だった。彼に世話になったのは事実だ。この洞窟で今まで生きながらえてきたのも一重に彼のおかげだ。できることなら、殺すことはせずに、どこか洞窟の奥の方ででも監禁して、彼が以前の勇気を取り戻すまで見張りを立てて説教をして、待っていたいもんだと思ってた」

「それは……そうできれば一番いいが」

「そうだろう? それが一番だよな」


だが、とロバートは思った。
フェルナンドは続ける。


「でも、それでうまくいくかと言ったらそう断言はできないよな。見張りは誰がやる、食事の世話はどうする、彼一人を勘定に入れなければ食費も浮くってもんだ」

「その通りだ」

「といっても、俺がピラールに賛成したのは、何もこの案が理想論に過ぎるからじゃないぜ。だってそうだろ? 俺やあんたが今戦っている理由だって、結局は理想に少しでも近づきたいからだろ? 何か思い描くことがなきゃ、人間は自分から何か行動を起こしたりしないもんだよ。それってのが俺の考えだ。だが他の奴の考えとなるとまた違う。俺はピラールの考えに従うことにしたよ。だって彼女はパブロの女房だからな」

「君の言ってた理想はどうなるんだ?」

「俺の理想は俺の中のもんだ。だが俺はピラールほどパブロをしらねぇ。パブロが今までどんなにか俺たちを救ってくれたか、それに今あいつがあんなに臆病になっているのは、俺達の、それからあいつ自身とあいつの馬の安全を考えすぎてのことだって、ピラールにはもっとわかってるんだ。わかってないはずはないよ。だから俺は彼女が下した決断に従うよ」

「だがもしかしたら君の方が正しいかもしれない」

「でもきっとあんたは俺の考えを正しいとは思ってないだろう。理想的な形だとも」


ロバートはギクッとした。正直なところ、パブロを生かしておくことで彼らが被る不安や危険を考えれば、フェルナンドの考えはちっとも理想的ではなかった。それは、自分が人の死に慣れ過ぎているせいかもしれないが。


「自分の周りに起こっていることでも、芯には見抜けないものだよなあ。明後日の朝、俺達が戦う奴らは本当にファシストなのかとかさ。大雑把にくくれば、みんなファシストだし、ファシストの仲間だけど。でもさ……」


フェルナンドは言葉を切った。


「こんなこと言うと、いつもピラールに怒られるんだよな、『敵方の事情なんかに構っていたら死ぬのはあんただよ』ってさ。ついでに『この愚図、大した人生も生きていないくせにいっぱしの口を聞くんじゃないよ』ってね。本当に、その通りなんだよなぁ。自分が殺そうとしている相手が、本当はすごくいい奴かもしれないし、でも殺さなければ自分が殺されるかもしれないし、パブロは俺達を助けてくれたけど、今度は助けてくれないかもしれないし」

「あまりいろんなことを考えすぎるなよ。人間ってのは一度に考えられることは限られているんだ。それでも考えたければ、戦闘が終わってからにすればいい」


ピラールが彼のことを愚図と言う理由がわかったような気がする。彼はきっと聡明で思慮深い人間なのだろうが、この緊迫した時代に生まれてくるべきではなかったのだ。


「うん、そうだなあ。だから俺は、いろんな物事の決断はなるたけ俺よりも理解していそうな人間に託すことにしているんだ。でも俺にもわかることがいくつかあるよ。そういう数少ないことに関しては、俺は自分で決断することにしている」

「例えば?」

「うん、例えば、あんたが明日橋を爆破すること、どれだけの想いを持っているかは俺にはわからないが、それでもあんたはあの橋を爆破するんだろう」

「無論、そのつもりだ」

「なら、俺はあんたに全面的に従うよ。あんたの口から出た命令なら、何でもこなしてやる」

「例え理不尽な命令でも?」

「例え理不尽な命令でも、だ。なぜなら、あんたはアメリカ人だからだ。こんなうんざりしたところに、わざわざ乗り込んできたあんたに、協力しないなんて背徳行為に他ならない。俺は人としての道理はわきまえてるつもりだからね。それからもうひとつ」


フェルナンドは、うん、と自分に向かって頷きかけた。どうも彼は、何か本心から言う時には一つ間を置いて、自分の中で再確認する癖があるようだ。
彼の言葉を待つロバートの口元には、フェルナンドののんびりとした微笑と似たものが浮かんでいる。


「俺はあんたが好きなんだ。あんたの言った通り、俺はここの連中の中でも血の気が薄い方でさ。その点はあんたと似てると思うんだ。あんたに熱意がないって言ってんじゃないよ。でも、あんたは、何をするときにもそのことについてよく考えているだろう? 俺は愚図かもしれないけど、そういったことを見抜く力はあるんだ。こんな時じゃなきゃ、もっとあんたといろんなことについて語りたかったなぁ。なにしろ俺はいろんなことについて知らないんだから。いろんなところを見てきたあんたと議論をかわすことは楽しいだろうと思うんだ」


そう言う彼の視線は幾分弱まった吹雪に向けられたままだった。だが今その瞳に映っているものは、吹雪ではなく、彼のささやかな空想の愉しみであり、夢であった。

きっと彼とウイスキーを交えながら語り合うことは、とても楽しいだろう、とロバートも思った。こんな状況ではとても無理な話だが、いや、もう少しだけでも時間がありさえすれば、彼はマリアとの甘い一時の前に彼と談義をする時間を設けたかもしれない。洞窟の入口の毛布をぴったりと閉めて、暖炉に火をおこす。外で風の唸る音を聞きながら、銀のコップにウイスキーを注ぐ。彼が口元にコップを運ぶと、なみなみと注がれた水割りのウイスキーに黄色い明かりがちらちらと揺れる。彼のくつろいだ風な表情も、燃える火に暖かく照らされている。ロバートは彼にいろんなことを教えてやるのだ。


「明日が早く過ぎちまうといいなぁ」


なあ、ドン・ロベルト、と彼は呼び掛けた。ちらりと視線をくれたフェルナンドの顔に浮かべられた微笑が僅かに歪んでいるように見えた。

重たい鉛がロバートの心臓を深く、腹の奥まで沈めようとし、息苦しさが襲う。前途ある若者の命の灯が、自分の手のひらの上で次第に弱まっていく。その灯が近い内に完全に消え去ってしまうことを考えると、ロバートは途端今までに感じたことのない恐ろしい後悔に押しつぶされそうになった。